源義高 (清水冠者) (MINAMOTO no Yoshitaka (Shimizu no Kanja))
源 義高(みなもと の よしたか)は、平安時代末期の河内源氏の流れを汲む信濃源氏の武将。
清水冠者(志水冠者)と号す。
木曾義高とも。
源義仲の嫡男。
母は中原兼遠の娘。
経歴
寿永2年(1183年)、挙兵した父義仲は以仁王の遺児・北陸宮を奉じて信濃国を中心に勢力を広げ、同じ源氏の源頼朝とは独立した勢いを見せた。
また頼朝と対立していた叔父の源義広 (志田三郎先生)と源行家を庇護した事により、3月には頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。
義仲が11歳の嫡子義高を人質として鎌倉へ差し出す事で、両者の和議が成立した。
義高は信濃国の名族の子弟である海野幸氏や望月重隆らを伴い、頼朝の長女大姫 (源頼朝の娘)の婿という名目で鎌倉へ下った。
同年7月、義仲は平氏を破って入京する。
しかし義仲は平安京を治めることに失敗し、後白河天皇とも対立する。
頼朝は都に源範頼・源義経を代官とした義仲追討軍を派遣した。
元暦元年(1184年)1月、義仲は宇治川の戦いで追討軍に敗れ、近江国粟津で討たれた。
父・義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化する。
4月21日、頼朝が義高を謀殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がそうとする。
義高と同年の側近で、いつも双六の相手をしていた海野幸氏が義高に成り代わった。
義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出する。
しかし夜になって事が露見し、激怒した頼朝は幸氏を捕らえ、堀親家ら軍兵を派遣して義高を討ち取るよう命じた。
義高は4月26日に武蔵国で追手に捕らえられ、入間川 (埼玉県)で親家の郎党・藤内光澄に討たれた。
享年12。
5月1日に義高の残党が甲斐・信濃に隠れ、謀反を企てているとして信濃国に大規模な軍兵の派遣が行われた。
義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまう。
母の北条政子は義高を討ったために大姫が病になってしまったと怒り、義高を討った郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫った。
6月27日、藤内光澄は晒し首にされた。
神奈川県鎌倉市・常楽寺 (鎌倉市)に義高の墓と伝わる塚(木曽塚)がある。
海野幸氏はその後も頼朝に仕えて鎌倉幕府の御家人となっている。